ミカドヤな日常

アートディレクター/グラフィックデザイナーの夫とイラストレーターの妻の日常です。ミカドヤのHPはコチラ:design.mikadoya.jp

親友よ、明日泣け。

父は、数年前より社会、祖国に対して自分の思いの丈を各新聞社に投書しております。
投書内容も新聞社から編集されるほど過激なものから、ノスタルジックなしみじみ懐かしい思い出まで。
ついには「『集団的自衛権』についてのご意見を聞きたい」と実家まで取材が来たほど、その想いは真っ直ぐで熱い言葉ばかりです。
今回、父の記念とプレゼントも兼ねて、新聞に掲載された全てを書籍としてデザインし、10冊ほど贈りました。

タイトルは『親友よ、明日泣け。(ともよ、あすなけ。)』



辛かった新米船員時代、ラジオから流れてきたDJ・森繁久彌氏の言葉
『本当の幸せにしみじみ泣きたいのなら、今日の不幸せには笑って耐えようではないか。
親友よ、明日泣け』から引用。






父は中学を卒業後、教師を夢見て高校へ進学。
しかし戦後の日本はどこの家庭も貧しく、父の家も例外ではなかったようです。
親と幼い兄弟を食べさせるため父は夢を断念し、高校を中退。当時一番給与が高かった船乗りへの道を選び、
数十年間、輸入出の大型船に乗り世界中で仕事をしてきました。






私が産まれて船を降りた父でしたが、やはり『船乗り』といった思想で私を育ててくれました。
たとえ反抗期を迎えても、泣く母をよそに
父だけは絶対に私を否定することはありませんでした。
「世界を見ろ。海のように広い視野を持て。小さくまとまるな。」
「勉強なんかせんでいい。とにかく何か胸を張って一番になれることを見つけろ。」
「『友だち100人できるかな♪』なんて歌があるが、あれはウソだ。友達なんて3人おればいい。
小学校で1人、中学で1人、(もし行きたいなら)高校で1人。「100人」じゃなくて、「100年」ぞ!」
・・・今振り返ると熱すぎて気恥ずかしい言葉ばかりですが、私はこんな父が大好きでした。







今の世の中、便利になり、人とのコミュニケーションも簡単にやりとりできるようになりました。
それだけにその手軽さ、匿名性を最大限に利用し、無責任な書き込みをする卑怯な連中もいます。
どれだけ新聞社に編集されようが、妨害されようが、自分の名前で自分の字で正面切ってちゃんとモノ申す父は私の誇りです。




本の最後のあとがきの原稿には(暑苦しい)父らしく、こう記してありました。
[お願い]
一、死期が迫ったと診断された時、一切の延命治療は施さないで下さい。
二、現世への未練及び肉体の苦痛の為、自身の尊厳を保てられない時、激痛を和らげる薬物投与を望みます。例えそれが死に直結しても諒とします。
三、植物人間に成った時、生命維持装置の使用は決して望みません。

読み上げながら、「ああ、これは私に言ってるんだろうな」と思いました。
その時がきたら父の希望どおりにすぐ実行できるかどうか。。
元気な父しか知らないため、まだまだ時間が欲しいのですが、
間違いなくこの本は父の棺桶に入れてやろうと思っています。


以上、暑苦しい家永家の話でした。